小林虎三郎は米百俵を教育のために使い国漢学校を建てた郷土の偉人

・米百俵
2001年、小泉純一郎元首相が所信表明演説に使った「米百俵」は越後長岡藩の武士、小林虎三郎の精神を引用したものでした。末尾に詳しく掲載しています。

長岡藩は江戸幕府譜代大名の重要な藩でした。
三河(家康の膝元)から来た牧野家が藩を治めていました。

長岡藩については司馬遼太郎の小説「峠」に出てきます。
江戸から明治に変わる時期に国を思い全国を奔走した武士、河井継之助は
新政府軍に破れ戦死してしまいました。

・小林虎三郎
そんな動乱の時代に国、藩のために動いた小林虎三郎がいました。
虎のように強く育つようにと名づけられた虎三郎ですが幼いときに天然痘にかかり左目を失いました。

自分は学問で生きようと決心する。
10代で藩校の助教に任されるほどでした。

・佐久間象山に学ぶ
23歳で江戸に出て佐久間象山の門下生になり、勝海舟や吉田松陰などと一緒に学んだ。
塾長に抜擢されたほどの虎三郎は「情け深く誠実でなかなか得がたい人物だ」と佐久間象山が述べている。

優秀で人徳のある虎三郎が1853年下田に黒船が来航した際に幕府に
「下田より横浜のほうがよい」と意見書を出した。
そのことにより幕府の怒りを買ってしまい江戸から長岡へ戻され幽閉の身になった。
27歳の時だった。
人生のどん底になり、やけ酒の所為かどうか体を壊してしまう。

・人生のどん底

虎三郎は人生のどん底にいるときに書物を読み知恵を生み出した。
歴史のマイナス面を資料から見つけ出し自分なりの考えを固めた。
長岡は戊辰戦争に負け石高は3分の1に減らされ町は焼かれ市民は困窮していた。

・三根山藩が援助
江戸幕府は新政府軍に取って代わり、明治3年に虎之助は大参事に抜擢される。
長岡復興のために三根山藩が援助「米百俵」を申し出てくれた。

虎三郎はこの米を売って未来のために教育に当てようと考えた。
米を270両(今の2000万円)で売って国漢学校を建てた。
物理、英語、化学などの実学を中心にした学校で現存している(長岡高校)。

・国漢学校

この学校は武士だけでなく、町民や農民も入学できるようにした。
明治5年に新政府軍は学制を発布する。
虎之助は持病が悪化していたが意志を貫くために江戸へ向かう。

・教師の必読書
教科書「小学国史」を作り、だれもが読みやすい漢字かなまじりの教科書にした。
「教師必読」書を出し全国の師範学校で採用されたという。

(NHK知恵の泉から引用)

三根山藩は長岡から車で40分くらいのところにあり、酒蔵「峰の白梅」が
近くにあります。
江戸、明治の歴史を想いながら街道沿いの酒蔵セットを揃えてみました。
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弥彦街道物語

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